リオハとバスクを訪ねる旅32(グッゲンハイム美術館3@ビルバオ) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
ランチをしたグッゲンハイム美術館に併設されているレストラン「ネルア」は
ミシュランで☆(一つ星)を獲得しています。
ミシュランで☆(一つ星)を獲得しています。
店内にはもちろん他のお客様もいらしたのですが、私たちのようなグループでも入っても
全く問題ないほどのゆったりとしたスペースがありました。
全く問題ないほどのゆったりとしたスペースがありました。
アミューズ。
ほぼ9が月も前のことなので記憶が薄れていますが鶉の卵だったと思います。
向かって左側の飲み物は忘れました。
飲み物(ワイン)をオーダーしたはずなのですが、空腹で食べることばかりに集中していたのか
うっかり写真を撮るのを忘れてしまったようで画像が残ってなかったです。
うっかり写真を撮るのを忘れてしまったようで画像が残ってなかったです。
リオハとバスクを訪ねる旅31(グッゲンハイム美術館2@ビルバオ) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
前記事でInatimyさんが写真撮影のことを心配して下さいましたが
見学前に美術館の方からお話があり、
館内は撮影OKのところと撮影禁止のエリアがあって
ざっくりいうと美術館内部でも建物に関するところは撮影OKで
内部で展示されている作品については撮影禁止ということでした。
外に展示されている作品はもちろん撮影OKです。
見学前に美術館の方からお話があり、
館内は撮影OKのところと撮影禁止のエリアがあって
ざっくりいうと美術館内部でも建物に関するところは撮影OKで
内部で展示されている作品については撮影禁止ということでした。
外に展示されている作品はもちろん撮影OKです。
Inatimyさん気にして下さってありがとうございました。
ロビーの部分は吹き抜けになっていて、高さは50メートル、光を多く取り入れるよう窓が大きく取られています。
私たちのグループは美術館の方の引率の下に見学をしましたのでもちろん規則を守りましたが、
他の一般の方々はそんなことはお構いなしに撮影している人が多く、
と言って美術館の人々が厳しく注意している様子はなく、あれ?とは思ったのですが
美術館の方からするとあまりに撮影している人が多くてもう諦めの境地なのか
「できれば、私たちが見ていていないところで撮影して欲しい。」と笑いながらおっしゃっていました。
他の一般の方々はそんなことはお構いなしに撮影している人が多く、
と言って美術館の人々が厳しく注意している様子はなく、あれ?とは思ったのですが
美術館の方からするとあまりに撮影している人が多くてもう諦めの境地なのか
「できれば、私たちが見ていていないところで撮影して欲しい。」と笑いながらおっしゃっていました。
テラスに出ます。
リオハとバスクを訪ねる旅30(グッゲンハイム美術館@ビルバオ) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
少し間が空いてしまい久しぶりの更新となります。
皆様のところへのご訪問も滞っていてごめんなさい。
昨年の10月に行ったスペインのリオハとバスク地方の旅行記の続きです。
皆様のところへのご訪問も滞っていてごめんなさい。
昨年の10月に行ったスペインのリオハとバスク地方の旅行記の続きです。
写真撮影だけで終わってしまったビスカヤ橋を後にして向かったのは、
今やビルバオの「顔」であるグッゲンハイム美術館。
ニューヨークにグッゲンハイム美術館の分館として建てられ
その前衛的な建物はアメリカの建築家フランク・ゲーリーによるもので
かつて造船所のあった場所ということで船に似せて設計されたとのことです。
今やビルバオの「顔」であるグッゲンハイム美術館。
ニューヨークにグッゲンハイム美術館の分館として建てられ
その前衛的な建物はアメリカの建築家フランク・ゲーリーによるもので
かつて造船所のあった場所ということで船に似せて設計されたとのことです。
近くにはこの美術館の雰囲気に合わせたのか現代的な高層ビルが聳えていましたが
周囲はほぼ昔ながらの建物に囲まれています。
10月だったので木々が色づき始めていました。
10月だったので木々が色づき始めていました。
リオハとバスクを訪ねる旅29(ビスカヤ橋@ビルバオ) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
旅行も第7日目になりました。
この日はサン・セバスチャンからビルバオへ。
この日はサン・セバスチャンからビルバオへ。
ビルバオはビスケー湾に向かって開けた、スペイン北部屈指の港湾都市です。
かつては鉄鋼・造船の町として栄えたものの重工業の衰退、1980年~1990年にかけては
バスク紛争によるテロ事件により産業が空洞化して町は不況に陥っていたそうです。
その後インフラの整備により町が活性化し現在に至っています。
まず、最初に訪れたのがユネスコの世界遺産にも登録されている「ビスカヤ橋」。
ネルビオン川の河口に架かる1893年に開通した世界最古の運搬橋です。
ネルビオン川の河口に架かる1893年に開通した世界最古の運搬橋です。
設計者は、エッフェルの弟子のひとりでビルバオ出身のアルベルト・デ・パラシオ。
当時としては画期的な軽量鉄ケーブルを使った構造は、世界各地に造られた運搬橋のモデルになったとか。
当時としては画期的な軽量鉄ケーブルを使った構造は、世界各地に造られた運搬橋のモデルになったとか。
向こう側にゴンドラが見えます。
リオハとバスクを訪ねる旅28(美食の街 サン・セバスチャン8 バル巡り) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
一旦ホテルに戻ったあと、
添乗員さんが希望者をバル巡りに連れて行ってくださるというので私も参加。
再びバスに乗って旧市街へと出かけました。
添乗員さんが希望者をバル巡りに連れて行ってくださるというので私も参加。
再びバスに乗って旧市街へと出かけました。
まず1件目「Goiz-Argi」です。
飲み物はビールにしましたが、1件軒で終わらないので小さめの物を注文。
このお店で人気のエビのグリルを注文。
串にさしてあるので焼き鳥のような感覚で食べられます。
バルは立ち食いのところがほとんどです。
着席できるところがあっても席数が少ないです。
着席できるところがあっても席数が少ないです。
長居はせず、終わったらすぐにお店をでて次へ。
リオハとバスクを訪ねる旅27(美食の街 サン・セバスチャン7 風の櫛) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
エドゥアルド・チジータ(チリダ)氏のオブジェを見に行くために
ケーブルカーを下りて更に山を下って行き、海辺の沿いの道に出ると
「Eduard Chillida Pasealekua (エドゥアルド・チジータ 遊歩道)」と刻まれた表示がありました。
この道を歩いていきます。
この波を利用してボディーボードやっている人がいました。
次々と波が押し寄せます。
暫く歩くと遊歩道の突き当りにそのオブジェがありました。
リオハとバスクを訪ねる旅26(美食の街 サン・セバスチャン6 モンテ・イゲルド [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
旧市街からモンテ・ウルグルの対面にあるモンテ・イゲルドへは
ホテルに帰る16番のバスにそのまま乗って行けばたどり着けます。
そのことをガイドブックで見つけて、だったらホテルに帰るがてら
ちょっと足を延ばす感じで行けるので行ってみようと思ったのです。
ホテルに帰る16番のバスにそのまま乗って行けばたどり着けます。
そのことをガイドブックで見つけて、だったらホテルに帰るがてら
ちょっと足を延ばす感じで行けるので行ってみようと思ったのです。
バス停に行くと同じツアーの方が何人か既にバスを待っていて、
私がモンテ・ウルグルの行くというとお二人が行きたいということで
一緒に行くことにしました。
私がモンテ・ウルグルの行くというとお二人が行きたいということで
一緒に行くことにしました。
モンテ・イゲルドの頂上へ行くにはフニクラがあるのでそれを利用します。
フニクラの下駅です。(帰りに撮りました)
「FUNICURA MONTE IGUELDO」の表示があります。
リオハとバスクを訪ねる旅25(美食の街 サン・セバスチャン5 モンテ・ウルグル) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
バスクチーズケーキを2個完食して満腹になったあと
サンタ・マリア・デル・コロ教会の裏山のモンテ・ウルグル(Monte Urgull)へ。
地図を見ると至るところに登り口はあるようなので、しばらくは海岸沿いの歩道を歩いていきました。
サンタ・マリア・デル・コロ教会の裏山のモンテ・ウルグル(Monte Urgull)へ。
地図を見ると至るところに登り口はあるようなので、しばらくは海岸沿いの歩道を歩いていきました。
コンチャ湾。
弓なりの美しいい海岸線は、コンチャ海岸。
かつて外敵から守るために設置されたもの思われる砲台が残されていました。
リオハとバスクを訪ねる旅24(美食の街 サン・セバスチャン4) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
1週間ぶりの更新になってしまいましが、
サン・セバスチャンの旧市街の観光の続きですが
今日の記事入る前に前記事で私が分からなかった女性の銅像のことをInatimyさんが調べて下さり、
コメントに書いてくださったので、抜粋させて頂きますね。
サン・セバスチャンの旧市街の観光の続きですが
今日の記事入る前に前記事で私が分からなかった女性の銅像のことをInatimyさんが調べて下さり、
コメントに書いてくださったので、抜粋させて頂きますね。
この像です。
『8月31日通りにあった女性の銅像、この像で女性は煉瓦の入ったカゴを頭の上に乗せてます。
これは1813年にサン・セバスチャンに壊滅的打撃を与えた火災の後に、町の再建のために
煉瓦を運ぶ作業に従事した女性を表してるようです^^』
これは1813年にサン・セバスチャンに壊滅的打撃を与えた火災の後に、町の再建のために
煉瓦を運ぶ作業に従事した女性を表してるようです^^』
ということです。
Inatimyさん、ありがとうございました。
記事を書くときに私も一応ネットで調べてみたのですが、調べ方が悪かったのか
全くヒットしなかったので諦めていました。おかげですっきりとしました。
記事を書くときに私も一応ネットで調べてみたのですが、調べ方が悪かったのか
全くヒットしなかったので諦めていました。おかげですっきりとしました。
で、ここからは今日の記事です。
サンタ・マリア・デル・コロ教会の内部をを見学した後、
この日は午後自由時間になるので、旧市街を歩きながら、
添乗員さんから、いくつかのお店やタクシースタンドなどを教えてもらって解散でした。
この日は午後自由時間になるので、旧市街を歩きながら、
添乗員さんから、いくつかのお店やタクシースタンドなどを教えてもらって解散でした。
リオハとバスクを訪ねる旅23(美食の街 サン・セバスチャン3) [海外@リオハとバスク(西・仏)2019秋]
1813年8月31日、スペイン独立戦争の際に町が戦火で焼け野原となったにもかかわらず
焼け残ったサン・ビセンテ教会の脇の道は、8月31日通りと名付けられています。
焼け残ったサン・ビセンテ教会の脇の道は、8月31日通りと名付けられています。
建物に設置されている街灯が素敵!
この8月31日通りの両側にもバルがたくさん並んでいました。
ドアはあいているところも開店時間にはまだ早く、お店の人たちは準備に余念がありません。